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『知的誠実性』を問うことの陥穽について

宇都宮京子

200434

 

 

はじめに

 本文は、羽入辰郎氏著『マックス・ヴェーバーの犯罪−「倫理」論文1)における資料操作の詐術と「知的誠実性の崩壊」−』(以下、「羽入」書と略す)をめぐって、自分の意見を概括的に述べたものである。

 

 

1.内容についての所感

1・1 科学者の「知的誠実性」を告発するということについて

ヴェ−バ−が、統計結果に基づいて持った視点と疑問点とを提示するというかたちで「倫理」論文をスタートさせていることは、重要だと思われる。そのような統計結果から、ある「意味」を読み取ったわけで、その統計結果を因果的に説明すべく、「資本主義の精神」という理念型の構成を行った。もちろん、これは、1つの試みであり、ヴェーバーが行ったのとは、別な因果連関の構成、因果的説明も可能であったかもしれない。そのような立場をヴェーバーが取っていたことは、「社会政策及び社会科学の認識の『客観性』」およびその他の諸論文から読み取れる。

ところで、その場合、ヴェーバーが立てた、プロテスタンティズムという一宗教のもっていた精神や生活態度が、資本主義という経済体制の成立に影響を与えたという仮説およびその構成過程が、どのように、また、どこまで説得力や論拠を欠くものであったら、ヴェーバ−は、知的に不誠実ということになるのか、ということが問題になる。

 簡単に一言で言ってしまえば、それは、プロテスタンティズムの倫理(特に、カルヴィニズム)と資本主義の精神との影響関係の考察について、一切寄与することができていない場合、すなわち、ヴェーバーが、最初に示した視点と疑問点の説明に全く寄与しない場合であろう。逆に、何らかのかたちで、従来からあった知見に、新しい、価値あるものの見方を付加することに寄与できているならば、たとえ、部分的に不備がもし、あったとしても、その貢献は評価されるべきであろう。

もちろん、論証の素材として提示されているものが不十分なものである場合や、その証拠からでは、筆者が論証したと主張するような結論を導き出せない場合、その論文の科学的価値が疑われることはあるであろう。しかし、その不十分さが、論争で指摘され、もし、ある筆者が敗れたとしても、それをその研究者の全人格や学者としての価値を否定されるということに直結することは少ないであろう。羽入書が、それを敢えて行ったのは、そこに、「論証できないことを知っていながら、意図的に、本当は使っていけない資料等を論拠として用いた」とか、「論拠を捏造した」と判断したからである。

しかし、羽入氏は、ヴェーバーのそのような「悪意」や「捏造」を本当に動かせない証拠を示して証明したといえるのであろうか。折原氏も指摘しているが、1つの論文に焦点を当てて批判するにしても、その論文が書かれた背景や他の論文との関係、さらに、(もっと重要だと思うが、)その論文を支えている論理学や方法論との関係を視野に入れなければ、分かるものも分からなくなるであろう。それを、羽入氏の著作においては、「理解できないのは、そこに詐術が施されてきたから」的な文言がちりばめられているのは、あまりに短絡的で一方的な断言ではないかと思われる。折原氏のような視点で「倫理」論文を読めば、ヴェーバーが、意図的に読者を欺こうとして詐術を働いたとはいえず、むしろ、考え抜いて、知的良心に基づいて書かれた部分も、文脈性を無視することによって、詐術に見えてしまう場合があるのだということが分かってくる。

羽入氏は、彼の著作の目的について、次のように書いている。「本書で重要なのは、『事実がどうであったか』ということではなく、むしろ逆に『事実についてヴェーバーが何を書いたか』ということなのである。あるいはより厳密に述べるならば、どのようなやり方で歴史的事実に関する彼のテーゼをヴェーバーは組み立てたか、ということのみに関心があるのであり、その組み立てられたテーゼが歴史的事実と合致するか否かということにはわれわれはなんら関心をもたない。本書で重要であり問題とされるのは、学者としてのマックス・ヴェーバーの『知的誠実性』(原語と引用注:略)のみである」。(「羽入」書 10頁)しかし、このスタンスは、正しいのであろうか。実際は、ヴェーバーの論述の展開を辿ることは、歴史的状況や事実がどのようであったのかを考慮せずには、不可能だと思われる。客観的可能性判断は、経験的事実との関係で行われるからである。

しかし、このように抽象的に論じても、論点は、はっきりとしないままであると思われるので、折原氏がすでに論じた内容と重複することを恐れずに、以下で、私自身の論脈で、羽入氏の、特に、第1・2章(部分)における論述の傾向とその問題点を例示したいと思う。

 

12 「羽入」書、第1・2章(部分)の具体的な問題点の例

 まず、羽入氏の、ヴェーバーの「倫理」論文を解釈する時の姿勢を端的に示していると思われる彼自身の文を以下に引用したいと思う。「…こうした『職業義務の思想』は聖書翻訳者達の精神から由来したのである(AfSS 37;RS 65;大塚訳九五頁、梶山訳・安藤編 一三四頁)、と。ここでヴェーバーは、『翻訳者の精神』(傍点引用者)と述べているのであるが(この部分、従来邦訳では『翻訳者の精神』と単数で訳されてきているが、“…der Übersetzer”は複数2格である)、しかしながら、このすぐ次に続く部分での彼の叙述、及びその部分に付された注からただちに分かることは、彼がここで重視しているのは実はマルティン・ルターただ一人であるということである」。(「羽入」書 67・68頁)

 せっかく「翻訳者達」(複数形)であると気付きながら、羽入氏は、なぜ、ヴェーバーが、ルターとそれ以外の翻訳者たちの両方をこの個所で指していると考えなかったのだろうか。

この指摘部分の前後も記すと「今日的な意味におけるその語は、むしろ、聖書の翻訳(pl.に由来し、しかもund zwar)、翻訳者たちの精神に由来しているのであって、原典の精神に由来しているのではないということがさらに、明らかになる」G.A.z.R. S.65)となっている。「聖書の翻訳」も複数形なのであり、それをさらに詳しく説明するかたちで、翻訳者達の精神(複数形)と書かれているのに、なぜ、ここで、ルター1人を重視していると考えられるのだろうか。ルターのみならず、地域と時間を超えた多くの翻訳者達のその都度の解釈こそが、実は、意味創出の場であったとヴェーバーはここで強調しているのだと思われる。

羽入氏は、しばしば、ヴェーバー自身が明記していることを無視したり、自分の解釈を押し付けたり、間違いだとか、不誠実さの現われだとみなして、論を進めることがある。しかし、もし、本当に知的不誠実さを立証しようとするのならば、まず、相手が、100%知的に誠実であると前提して検証を進め、なるべく相手の文脈に沿って正確に理解しようとあらゆる努力をし、それでも問題が生じるときに初めて、そこに不誠実さが介在したと判断すべきであろう。しかし、羽入氏は初めから、「知的に不誠実なヴェーバーだから、こんな変なことをすることもありうる」という思い込みに支配されているところがある。

 その一番端的な例が、原注24の紹介および解釈の仕方に見て取れる。

氏曰く:「時間的順序に基づいたルターの翻訳相互の影響関係に関するヴェーバーの右の立場は、純粋に年代的な順序の見地から見た場合には、やや奇妙に響く面を持っている。というのは、それは、『コリントT』七・二〇においてルターが行ったギリシア語“クレーシス”に対する“Beruf”という訳語の選択は(すでに見たように、実際には“ruff”であったが)、すぐ二年後の『箴言』のルター訳には全く影響を与えず、他方、十一年後の『ベン・シラの知恵』のルターの翻訳には影響を与えたということを主張しているからである」。(「羽入」書 87頁)

 この文には、さまざまなトリックが潜んでいる。この文中の、「実際には、“ruff”であった」ことを示したのは、羽入氏自身であるのだが、ヴェーバー自身も、「ルターが、『コリントT』第7章第20節の中のギリシア語“クレーシス”に対して、“Beruf”という訳語を選択した」などとは、本当はどこにも書いてはいない。それを、書いていたことにして、このように批判を進めているのである。

さらに、ヴェーバーは、自分で、「現代の普通の版における」ルター聖書を用いたと書いて(G.A.z.R. S.67)、『コリントT』の第7章の章句の引用を行っているのだが、羽入氏の主張によれば、「ヴェーバーは、非常におかしなことに、オリジナルなルター聖書に当たることもせず、『(現代の普通の版における)ルター訳聖書』を用いて、しかも、なぜか自分でそれを明示していた」のである。「ヴェーバーは、オリジナル版に当たっていないから、ルターが、ruffを使って訳していたことを知らなかった。それは恥ずかしいことである。それならば、現代の普通の版のルター聖書を使ったという事実を隠すはずなのに、なぜ書いたのか」ということであろう。このような羽入氏の論理に乗ってしまえば、確かに、読者は、「ヴェーバーってそんなにいい加減で変なことをしていたのか」と思うであろう。

しかし、実際、なぜヴェーバーは、自分で、「現代の普通の版における」ルター聖書を用いたことをわざわざ書いたのだろうか。もし、彼の知的誠実さを信じるところから解釈を始めるならば、「そこには、何か、理由があったはずである」と考えて、他の文脈との繋がりを、そのような視点で解釈しようとするだろう。しかし、不誠実でいい加減だ、という前提から出発すれば、このような自分に不利な指摘を自分自身で行っていることそのものが、ヴェーバーの訳の分からなさの新たな例証になってしまう。それに、もし、羽入氏の設定に乗ったとしても、人を欺こうとするような「詐術に富んだ」研究者が、わざわざ、自分に不利なことを明記するであろうか。したがって、羽入氏の解釈では、ヴェーバーは、常人としての判断力も持っていない変人ということになる。

では、もし、ヴェーバーが、正常で、「このように明記しても、自分には何も不利なことはない、むしろ、書くべきだ」と考えて、この「現代の普通の版における」という文言をつけたと前提する時、どのような解釈ができるのだろうか。それは、折原氏がすでに指摘しているが、『コリントT』第7章の17節から31節に対するルター自身の訳を紹介しようとしたのではなく、ルター以後のどこかある時代に始まりヴェーバーの時代まで引き継がれていた、翻訳者達によるこの章句の訳し方を例示しようとしたということだろう。(折原 80頁)

つまり、『コリントT』第7章の17節から31節まで通して読むと、神に召されたままの状態を保守しようとしているのは、現世の生活の場においてである。ヴェーバーは、『コリントT』の第17節以降の(第20節を含む)例示と、ルター自身によるこの節への釈義の紹介2)を通して、第20節の配置が、“クレーシス”という語にStandという意味を読み取らせる可能性をもっていること、つまり、神の召命を表わす語が、そのまま、この世において人々が置かれた状況や立場へと解釈され得るようになる可能性を示したのであろう。この世のすべては神の創造物であるのだ、という視点を徹底すれば、どんな身分もその人の身に起きている状況も、そして、職業も、神の思し召しの結果だ、ということになる。

ところで、『コリントT』第7章の章句が引用されているその少し後で、ヴェーバーが、以下のように述べている個所がある。長い文であるが、原文に即して切らずに訳してみた。

「しかし3)、各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的に動機づけられた勧告(Mahnung)において、“クレーシス”をBerufで翻訳していた(uebersetzt hatte)ルターは、後に彼が、その旧約外典を訳した時には、各自は、その仕事に留まるように、という『ベン・シラ書』の、伝統的主義的で反貨殖主義的に動機づけられた助言(Rat)において、ポノスを、確かにその助言(Ratschlag)の事実上の類似性のゆえに、同様に、Berufを用いて翻訳したのである」。(G.A.z.R. S.68)

この個所は、この文意をどのように解釈するかによって、羽入氏のヴェーバー批判が妥当と思われるか、誤解だと思われるかが分かれるところである。

羽入氏の解釈は、こうである。ヴェーバーが、「sachlichな類似性のゆえに」と書いたのは、「ルターが、『コリントT』第7章 第20節において、Berufという訳語を自身が用いたことに引きずられて(「羽入」書 88頁)、『ベン・シラ書』でも、Berufを用いたのだ」と考えていたからである。すなわち、以前のBerufという語の使用が、後のBerufという語の使用を引き起こした、ということになる。このように、この文を解釈するならば、「ルターは、『コリントT』第7章 第20節において、 “クレーシス”の訳語として、Berufを用いていた」とヴェーバーが判断していたことになる。

しかし、ここでの、「sachlichな類似性」とは、そのような意味だろうか。むしろ、ここでは、“クレーシス”と“ポノス”とが果たす意味上の役割のsachlichな類似性のことが、考えられていたのではないだろうか。

すなわち、以下のような、折原氏が提示し(折原 71頁)、橋本氏(『未来』)も支持を表明している見解と内容的にほぼ重なる、もう1つの解釈が考えられると思われる。

 

「『ベン・シラ書』を訳した頃の、信仰心が深まっていたルターは、地上における人々の状況も、住居地であろうと、身分であろうと、職業であろうと、すべて神の与え給うたものである、と考えるようになっていた。そして、まさに、その発想に基づいて、神の召命を意味し、従来、ルターによって、Berufを用いて訳されていた、ギリシア語“クレーシス“が用いられた勧告も、世俗の職業を意味していたギリシア語の“ポノス”が用いられている助言も、事実上は(sachlich)、指し示す内容が類似していると判断した。それゆえ、後者の“ポノス”も、“クレーシス”と同様に、Berufで訳してよいと考えた。」

 

この場合、ヴェーバーが、『コリントT』第7章の章句を引用したのは、神の召命を意味する“クレーシス”が、宗教的な世界の枠を超えて、世俗的な状況への架け橋ともなりうるRuf(=Stand 客観的秩序4))と、ルター自身によって解釈されていたことを示したかったからであろう。これは、先にも指摘したように、ルターによる発想の紹介であり、かつ、現に、後の世においては、Berufで訳されるようになっている、ということの提示の意味もあったであろう。

また、先に引用した文に見られるように、羽入氏は、『コリントT』が訳された2年後に訳された「箴言」22・29において、“クレーシス”が、Geschäftと訳されていたことを取りあげて、ヴェーバーの推論は間違っていると批判していた。なぜなら、『ベン・シラ書』は、『コリントT』の11年後に訳されているのに、『コリントT』におけるBerufの使用の影響を受け、それより以前に訳された「箴言」22・29には影響を与えていないのはおかしい、というのである。しかし、すでに論じたように、ヴェーバーは、「ルターが、『コリントT』第7章 第20節で、Berufを用いた」とは書いていないのであるから、この批判も無効である。

 

1・3 「倫理」論文における論証の有効性について

もし、この「倫理」論文の意義が、疑われる場合があるとしたら、それは、まず、『ベン・シラ書』より前に、“Beruf”という概念が、今日使われているような意味で、翻訳等で用いられていたということが証明された場合であろう。だから、そのような視点を提示したブレンターノを、ヴェーバーは、鋭く批判したのであると思われる。

ところで、「ルターの信仰が熱烈」になったということが、いかなる資料からも経験的(歴史的)事実として読み取ることができない時も、この「倫理」論文の価値は問われるかもしれない。ヴェーバーは、1530年頃から、「生活のすみずみにまでおよび神の個別的な摂理についてのルターの信仰が熱烈」になったことを、現在のような意味での“Beruf”概念の成立と流布の一要因として挙げている。そのような歴史的事実や社会的状況を介在させて初めて、ヴェーバーの因果連関は、完成していると考えるべきであり、それを、文献学的検証だけで論難しても、本質を見失うだけではないだろうか。そして、上記のような信仰の深まりと聖書の訳語との関係については、折原氏の指摘しているように、翻訳においては、「その語をこの文脈ではどう訳すべきか」という、翻訳者たちのその都度の判断が介在するから、必ずしも、ルターの時代やその直後にすぐに訳語の変更が行われるようになるとは限らないのではないだろうか。だからこそ、ルター以降の「翻訳者達」の解釈(精神)も視野に入れて、この「倫理」論文の理念型構成の作業は、進められていると考えるべきで、それゆえ、この「翻訳者達」という語は、複数でなければならなかったのだと思われる。

 もし、そのように考えて関連個所を読み直すならば、ヴェーバーの論述は、決して矛盾したところはなく、少なくとも、羽入氏が、「ヴェーバーは、聡明なはずなのに必要な作業を行わず、訳の分からないことを、より関係のない部分についてゴタゴタと書いて、自分の論理が筋道立っていないことを隠そうと意図していた」、と読んだ部分は、そのようには読めない。

以上、上記のように、解釈すると、第1・2章(部分)における羽入氏の論述のかなりの部分は、興味深い部分があっても、ヴェーバーの知的不誠実性を証明するという目的にとっては、折原氏の言葉を借りれば、「一人相撲」(折原 114頁)になっていると思われる。問題でないところを問題視して、その問題性を論証しようとしているからである。

他の部分については、すでに、折原氏や橋本氏が指摘しているので繰り返して詳論することはしないが、第3章と第4章の証拠の挙げ方、論破しようとしている内容は、やはり、相互矛盾を孕んでいると思われる。読者がすぐには入手できない資料を用いて、自分の都合の良い部分だけ証拠として並べれば、このように論証は出来上がってしまうのだ、ということの例を見たように思えた。

 

 

2.私自身の立場について

私は、自分が、「ヴェーバー研究者」という範疇に納まる存在なのか自分では確信がもてない。しかし、ともかく、ヴェーバーの文章を読んで理解できないときは、(悪文であると思うことはあっても、)主にその予備知識の広さや深さの違いのせいであると考えてきたし、また、「なぜ、ヴェーバーはここで、このような参照指示を出しているのか」という疑問の謎解きが、私のヴェーバーの方法論に関する研究のきっかけの1つであった。細かい点では、ヴェーバーに全くミスがなかったとは言わないが、それでも、「なぜ、ここでヴェーバーは、表現を変えたのか」というように、理由なくしては、ヴェーバーは、いい加減な用語の変更はしない、という前提のもとに研究を進めてきた。そして、その結果として改めて、彼のなるべく厳密に論を進めようとするヴェーバーの姿勢を確認するということもしばしばあった。それは、ヴェーバーの権威に寄りかかろうとしているわけではなく、ヴェーバーの知的誠実さを前提にしているというだけのことである。また、私は、ヴェーバーだけでなく、どのような研究者の業績を研究対象とする時も、その研究者を、まず知的に誠実であると想定して、そこから研究を進めたいと思っている。

 私は、羽入氏の著作を読んだ学生から、「ヴェーバーって詐欺師なんですか。そのような人の研究に自分の時間を割くことに意義はあるのですか」と、もし、尋ねられることがあれば、「たとえ、もし、ヴェーバーに不十分なところがあったとしても、彼は、詐欺師ではない。知的に誠実であろうと人一倍努力をした人だ。そして、私がヴェーバーから学んだものは、大きく、ヴェーバーに出会えてよかったと思っている」と答えたいと思っている。

 

 

むすび

 羽入氏のこの文献学的研究に注いだエネルギーの大きさは敬服に値すると思うが、その研究を始める時と進める時の動機の歪みと視点の狭さが、せっかくの詳細な検討の過程で、原典のもつ真意と誠実性とを見落とさせたり、曲解させていることは、明らかであると思われ、大変、残念に感じている。

ある研究者の論文の価値を問うのではなく、その研究者自身の「知的誠実性」を問うということは、大変、難しいことなのではないかと、改めて感じた。すなわち、「知的誠実性」を問おうと意図すること自体が、その問い手自身の「知的誠実性」を失わせたり、歪めたりする可能性があることを、本書のあり方が示しているように思えるからである。その陥穽に陥らないように、私自身も、「羽入」書のもつ矛盾点や問題点について、客観的に考えていかねばならないと思った。

 

 

【参考文献】

橋本 努 (2004)「ウェーバーは罪を犯したのか――羽入−折原論争の第一ラウンドを読む――」(『未来』N0.448 pp.817 未来社 所収)

羽入辰郎(2002)『マックス・ヴェーバーの犯罪−「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性の崩壊」−』 ミネルヴァ書房

折原 浩 (2003)『ヴェーバー学のすすめ』 未来社

Weber,Max1920”Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus, Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie I J.C.B.Mohr

 (Paul Siebeck) Tübingen G.A.Z.Rと略す):阿部行蔵訳 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」、(『ウェーバー 政治・社会論集』(世界の大思想23) 河出書房 所収)

 

 



1) マックス・ヴェーバーの論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」のこと。(Weber,Max

1920”Die protestantische Ethik und der Geist desKapitalismus, Gesammelte Aufsätze zur

Religionssoziologie I J.C.B.Mohr (Paul Siebeck) Tübingen (以下、G.A.Z.Rと略す)所収)

2) ルターは、『コリントT』第7章、第20節への釈義において、ギリシア語の“クレーシス”という語を、ドイツ語の“Ruf”で訳し、Standと解釈した、とヴェーバーは、書いている。(G.A.z.R. S.68)

3) この、「しかし(Aber)」にどのような役割を与えるかによって、その後に続く「各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的に動機づけられた勧告」の指す内容について異なった解釈ができる。この文の前後のつながり方や、ヴェーバーによる『コリントT』第7章の章句引用の際の時制の用い方などから、この「勧告」は、『コリントT』の第7章、第20節を指しているのではないと判断できる。

4) ヴェーバーは、G.A.z.R. S.65で、「『コリントT』第7章第20節における意味での客観的秩序として…」という表現を使っている。この場合、この「客観的秩序」とは、神からのはたらきかけそのものではなく、神が決定した結果としての「この世」の客観的なあり方を指しているのであろう。